スモレンスクの惨事

「神奈川大学法学研究所Ｎｅｗｓ　Ｌｅｔｔｅｒ」Ｎｏ．１５，Ｍａｒｃｈ，　２０１１

２０１０年４月１０日、ソ連共産党指導部の決定によってポーランド人将校２１０００名余りが殺害された「カティンの森」事件の７０周年を記念する式典に向かうポーランド政府専用機が、ロシアのスモレンスク近郊で墜落し、搭乗していた９６名全員が死亡するという大惨事が発生した。レフ=カチンスキ大統領夫妻をはじめ、国会副議長を含む各党の議員、軍最高指導部、国立銀行総裁などの要人と「カティンの森」事件の遺族らを一挙に失ったこの事件は、「スモレンスクの惨事」と呼ばれている。

　突然生じた大統領職の空白は、もともと秋に予定されていた大統領選挙を前倒しすることによって埋められた。６月２０日の第１回投票に続く７月４日の決選投票において、憲法に従って大統領代行を務めていた与党「市民政綱（ＰＯ）」の候補コモロフスキ国会議長が、前大統領の双子の兄で野党第1党「法と公正（ＰｉＳ）」の党首ヤロフワフ=カチンスキを僅差で破って当選し、新大統領に就任した。だが、「スモレンスクの惨事」はさまざまな傷あとと課題をポーランド社会に残している。

道路を挟んだ歩道に自然発生的に掲げられた犠牲者の写真など（２０１０．８．３０撮影）
　

　何よりも、墜落原因の解明がまだ終わっていない。調査は、ロシア側では旧ソ連諸国で作る国家間航空委員会と連邦検察庁、ポーランド側では内務省に設けられた事故調査委員会と検察庁によって行なわれている。ロシア側の調査にはポーランド側の専門家も部分的に加わり、ヴォイスレコーダー、証人の証言記録、被害者の解剖記録などを含む調査資料が順次ポーランド側に引き渡されている。ポーランド検察庁は、①飛行機の技術的問題、②人的要因（パイロットないし管制官の誤り）、③飛行の組織と安全、④第三者の行為という４つの可能性のいずれをも排除することなく調査している、としている。焦点は、空港は深い霧のため視界不良であり、空港側からも着陸困難との情報が伝えられていたと見られるにもかかわらず着陸を強行したとすれば、それはなぜなのかという問いである。④の「第三者の行為」とは、式典に何が何でも間に合わせるためにパイロットに対して何らかの圧力がかかるということがあったのかどうか、ということが含意されている。④のもうひとつの含意である「暗殺」や①の可能性を窺わせる材料の存在は、いまのところ否定されている。

　問題は、原因解明の過程が深刻な政治的対立の中に投げ込まれていることである。事件発生の時点において、兄カチンスキは、首相時代の言動により社会を分断する攻撃的な政治家という評価が定着し、弟とともにネガティヴな評価のもっとも高い政治家となっていた。しかし、服喪を終えて弟の事跡を継承すべき大統領候補として現れたとき、融和的な「新しい顔」をもつ政治家に姿を変えていた。弟を失った「スモレンスキの惨事」を経ることによってカチンスキは変わったのだ、とされたのである。こうして、大統領選挙戦においては「スモレンスクの惨事」問題を封印していたカチンスキだったが、敗北が明らかになるや、選挙中の「新しい顔」を投げ捨て、トゥスク首相の「道義的・政治的・法的責任」を追及するという姿勢を明らかにした。党首に呼応して、ＰｉＳは独自の調査委員会を発足させた。墜落の直接的原因が明らかでない段階での責任追及における論点のひとつは、ロシア主導の調査への不信であり、そのような調査態勢を「許している」政府への批判である。もうひとつは、４月１０日の式典そのものをめぐる問題である。３日前の４月７日には、ロシア側の組織した式典がプーチン首相の参加のもとに行なわれており、そこにはトゥスク首相が招かれていた。この式典の開催は、前年の９月１日の第２次世界大戦勃発７０周年式典にプーチンが出席したころから鮮明になったロシアのポーランドに対する融和の姿勢の延長線上にあり、「カティン」がスターリン主義による犯罪であることを認め、それと断絶することをロシアの政治指導者が明確にしたという点でも画期的な出来事だった。同時に、プーチンにとって「未来志向」の両国関係におけるパートナーが、ロシアと対立するグルジアに熱心に肩入れしたカチンスキ大統領ではなく、トゥスク首相であることは明確だった。こうして、いわば「外された」形になったカチンスキ大統領が独自に準備したのが４月１０日の式典だったのである。ＰｉＳが「暗殺」説こそはっきりとは口にはしないものの、トゥスクとプーチンとの合作による大統領攻撃という筋を立て、例えば４月１０日の飛行の安全確保の手を抜いたのではないかといった疑惑を投げかける所以である。このような状況は、遺族をも引き裂いている。その一部は、「スモレンスクの惨事」を「第２のカティン」として位置づけようとしている。それは、惨事がロシアによる犯罪であることを含意するものであり、故大統領を「カティンの真実」を求めて「斃れた」「殉難者」と見ようとすることにつながっている。他の一部にとって、それは９６人が共有する静かに悼むべき悲劇を政治化することにほかならない。

　こうして、犠牲者をいかに弔い、記憶にとどめるかということ自体が、論争の対象となっている。事件直後に自然発生的に生まれた弔意の波は、識者の注目を集めた。ある者は、故大統領を支持するか否かを超えて国家元首を失ったこと自体を国民的悲劇として受け止めた多くの人びとの弔意を見て、歴史的に＜社会＞と＜国家＞とがよそよそしい関係にあったポーランドで両者の一体化が実現した、と論じた。またある者は、この悲劇をつうじてポーランドの政治の質がより対決的でないものに変わる可能性への期待を表わした。服喪の時期から平時への移行の仕方を含めて、今後とも分析が続けられるだろう。

だが、少なくとも上記の期待にかんする限り、すでに裏切られつつある。その兆候は、早くも事件の1週間後、その経緯は不透明であるが、故大統領夫妻の棺が歴代の王や「国民的英雄」の眠るクラクフのヴァヴェル大聖堂に安置されたことに現われていた。「スモレンスクの惨事」で記憶されるべきなのは、さまざまな政治的立場に属する９６名の犠牲者と彼らを悼んだ国民なのか、それとも、何よりもメディアによって過小評価され、政治的敵対者による攻撃にさらされ続けた「偉大な大統領」なのか．．．。

大統領官邸前に設置された木製の十字架（２０１０．８．３０撮影）

　こうした伏線の延長線上で、思いがけない出来事が発生した。大統領官邸の前には、４月１５日にスカウトによって木製の十字架が設置されていた。大統領に就任したコモロフスキが、服喪の時期が終わったいま十字架は「よりふさわしい場所」に移されるべきであると発言すると、大統領選の敗者は、「サパテロ化」（公的領域からの教会の排除）の意図を隠して当選したとして新大統領を攻撃した。同時に、「十字架の擁護者」を自認する一群の人びとも態度を硬化させた。十字架は「よりふさわしい場所」として大統領官邸にほど近い教会に移すことで関係者の合意が成立したにもかかわらず、聖職者も加わる移転の儀式は「十字架の擁護者」によって実力で阻止された。「十字架の擁護者」の意図や心理とカチンスキのそれとは区別されなければならない。が、「新大統領の正統性を認めない、認めたくない」という共通の心情が、両者を結びつけているように見える。注目されるのは、十字架という宗教的シンボルに政治的意味づけが与えられ、そのことに対して「当事者ではない」として教会が手をこまねいている中で、宗教のこのようなプレゼンスに反発する自然発生的動きが若者を中心に誘発されたことである。これを機に、この２０年のあいだにカトリック教会が公的領域の隅々に浸透したいまのポーランド社会のあり方をより広く問い直そうとする動きが生まれている。誰もが意図していなかったであろう展開であり、これがどの程度の広がりを見せるか、今後の注視が欠かせない。

　カチンスキの「新しい顔」について言えば、いまではそれが選挙戦術であったことが明らかである。しかし、それが善戦の一因となったと見られるだけに、２０１１年の議会選挙における政権奪還を目指すＰｉＳの観点から見て、それを投げ捨てたことについてはＰｉＳの周辺からも疑問が寄せられている。ＰｉＳは、激しく競争する二大政党の一角として、体制転換の果実が公正に分配されていないと感じる人びと、欧州連合（その中核であるドイツ）やロシアという「他者」への不信を抱く人びとを中心とする固い支持基盤をもっている。遺族であるとともに政治家でもあるカチンスキの言動は、ＰｉＳの行方、ひいてはポーランドの政党システムの行方という観点からも無視することができない。

　最後に、「スモレンスクの惨事」がロシアとの今後の関係にどのような影響を及ぼしてゆくか、という問題がある。まずは原因調査の結果を待たなければない。結果がどのようなものになるにせよ、それについて合理的に判断する環境が損なわれていることはすでに述べたとおりである。しかし、事件の前から進行していたロシアの融和的姿勢は変わっていないだけでなく強められている。欧州連合との良好な関係を発展させるためには、そこで確固とした位置を占めているポーランドとの関係の改善が不可欠であることが自覚されているのである。政治指導部レベルにおけるそのような判断とは別に、ロシア市民はまさにこの惨事が起こることによって、結果としてかつてなく大衆的な規模で、「カティンの森」事件の存在そのものに目を開かされた。ポーランド市民は、テレビをつうじて事件の現場で犠牲者に弔意を現わすロシア市民の人間的姿を目の当たりにした。このことが、市民的レベルにおいても両者の関係を変えてゆく一契機になるのかどうか。関心は尽きない。（２０１０．９．２）

毎月１０日にカチンスキとその支持者によって行なわれている行進（２０１０．９．１０撮影）

〔追記〕

　２０１１年１月１３日、国家間航空委員会の事故調査報告書が公表された。事故原因はもっぱらポーランド側の事情にある、とするものだった。予期されたとおり、ＰｉＳなどは激しく反発し、国際的な事故調査委員会を設置すべきだとするかねてからの主張をいっそう強めた。政府は、より抑制的な調子ながら、報告書は「不完全」なものだとして距離を置く姿勢を示した。航空管制官の対応をはじめロシア側にも問題があったのではないか、と考えているからである。ポーランド側の事故調査委員会の報告書はまだ完成しておらず、両国の検察庁もそれぞれ捜査を続行している。

　このような状況のもとでポーランドは、事故直後の国民的服喪のときとは打って変わって、鋭い亀裂の中で１周年を迎えた。ワルシャワの墓地で行なわれた公式の式典をボイコットしたカチンスキは、大統領官邸前に集結した支持者の前で演説し、いま統治している者たちはポーランド国民の名において語る権利はないとして、民主的に選出された大統領の正統性を改めて否定した。さらに、弟大統領はいまとは違ったポーランドのために闘い、もしかしたらそれゆえにここにいないのかもしれないと述べ、「暗殺」の可能性をほのめかした。

　翌１１日、メドヴェーヂェフ大統領は、ロシアの大統領としては初めて「カティンの森」事件の現場をコモロフスキ大統領とともに訪れて献花し、事件が当時のソ連指導部によって引き起こされた犯罪であることを改めて明言するともに、全面的な解明を約束した。また、国家間航空委員会の事故調査報告書について評価が分かれていることを認め、さらなる調査を経たうえで最終的な解明がもたらされる、との認識を表明した。

　その２日前、スモレンスク空港に掲げられていたポーランド語の碑版が、ロシア当局によって２ヵ国語の碑版に取り替えられるという出来事が起こった。それは、前年の１１月に「スモレンスクの惨事」の遺族の一部がロシア側の同意なく取り付けたものだった。新たな碑版には「カティンの森」事件を「ホロコースト犯罪」と規定するポーランド語の碑版には含まれていた文言が欠けていたため、１周年を目前にした国内はこの「スキャンダル」に揺れた。しかし、「ホロコースト犯罪」という規定はロシア側によって受け入れられていないだけではなく、ポーランドの専門家のあいだにも、その国際法的妥当性や損害賠償を求める遺族の観点から見た適切性を疑問視する声がある。メドヴェーヂェフとの会談を終えたコモロフスキは、国際コンクールにもとづき、両国の合意した内容の２ヵ国語の記念碑が建立されることになる、と述べている。

　こうして、ロシアとの関係は、容易な道のりではないとはいえ和解に向けた歩みを見せている。その一方で、国内では非和解的な言説が激しく投げつけられている。視界の向こうに見えるのは、次なる戦いの舞台―議会選挙である。議会選挙は、２０１１年の後半、ポーランドが初めてＥＵ議長国を務める国際的に重要な時期のさなかの秋に行なわれることになる。（２０１１．４．２０）